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性善説と性悪説について

前回の「メラビアンの法則」と同様、これも俗流というか意味が間違って伝わってるのが気になる言葉です。

本来の意味では「性善説」は「人間は善きものとして生まれてくるのだが、適切に道徳教育を行わないと悪事を行なってしまうものである」という説であり、「性悪説」は「人間は悪しきものとして生まれてくるので、適切に道徳教育を行わないと悪事を行なってしまうものである」という説なので、結論としては、どっちも同じ「適切に道徳教育しないと、人間は悪事を行いがちだよね」ということを言ってるのであります。

「人間は本来は善なので、うるさく管理とか教育とかはしないよ」みたいなのを「性善説に基づいている」とか表現されると「なんか違う」と思ってしまうのです。

とはいえ、そういう運用をすること自体は悪いわけではないです。

サービスにしても会社組織にしてもそうですが、特に初期フェイズでは、本来の理念に忠実で場に愛着を持った意識の高いメンバーが集まるので、管理や教育をしなくてもさほどの問題が生じない。なので、あえてそこにコストをかけないという戦術は間違ってないと思いますし、あるいは、創造性や生産性の向上を期待して自由度を高めるというのもまた正しいです。そういう目的に自覚的に「ゆるく」あるというのはいいと思う。

しかし、孟子荀子も共通して「放置してると人間はいずれ悪になる」って言っている以上、それはいつまでも成立するものではないということで、性が善だろうと悪だろうと、いずれは教育や管理は必要になります。そこを想定していないフワッとしたオプティミズムでは長期運用するのは厳しいのです。

俗流「性善説」がよくないのは、悪用される危険性に対して最初から目をつぶってるというところ、さらには、今後起こり得る悪い事態を想定してリスクヘッジ策を考えた時「人を信用していないのか」みたいな雰囲気になるところ。

でも一番よくないなあと思うのは、そうやって信じていた仕組みが成立しなくなったとき、その人の「性善説」は否定され、人間不信になる危険があるところです。なんかそれはつらいので、正しい意味が普及すると良いなあと考えています。